昭和56年3月11日 朝の御理解              御理解 第三節                       「天地金乃神と申す事は天地の間に氏子居っておかげを知らず、神仏の宮寺氏子の家宅皆神の地所其理知らず、方向日柄ばかり見て無礼致し前々の巡り合わせで難を受け居る、今般生神金光大神を差向け願ふ氏子におかげを授け、理解申して聞かせ未々迄繁昌致す事、氏子ありての神、神ありての氏子上下立つやうに致す。」   
 金光教の信心が前代未聞だと合楽では説きますが、その前代未聞であるという事を、実証出けれる程しの御教えが、この御教えだと思いますね。
 ですからどうでもこの御理解第三節の御精神、この御教えをよく含味、本当に含味すればする程すばらしい、いうなら味わいというか、尊いというか御教えであります。それこそ沢山の宗教がありますけれども、こういう御教えに人間の幸、人間の助かりを説いてある御教えは、又と無なかろうと思います。
 だから本当に各々がそれを思へ、それが云えれるだけにこの御理解第三節を含味させて貰うて、成る程そうだなあと分かる。
 そして分かるだけではなくて、確かに最後に教えられてありますように上下立つように致すという、いうなら神も助かり氏子も立ちゆく、ここでは氏子ありての神、神ありての氏子というふうに表現してありますね。人間お前達があっての神だと、だから私共としてはだんだんおかげを頂いて、いわゆる神様あっての私共というふうに、頂かならんと思うですけれども、その神様と氏子とがただ人間が助かるという事だけではなくて、神様も助かって下さる。いわゆる上下立つように致すという所に、神様の悲願というかね願いがあると思うのです、為にどうしても分からなければならない事が、御理解三節にいろいろな角度から人間の不幸の元、又は人間が幸になる元はここにあると説いてあるのです。
 それには先ず天地金乃神と申す事はと、のっけに申しておられますように天地金乃神と申す事はという事を、私共が天地金乃神様とはどういうお方かという事を、先ず分からなきぁいけないね。それで合楽理念では天の心地の心というふうに説くわけです。又は日月の心をといろいろに説きます。初めて天地の心が分かってくる、天地とのいわゆるあいよかけよでの、かかわりあいというものが分かってくる。いうなら天地との交流と申しますかね、はじめてそこから神様の願いである所の生み出す信心というか、生み出すおかげの世界いわゆる合楽の世界がある。神様と氏子とが拝み合うていけれる世界。そういう世界に住まわせて頂かなければならん。
 先ずは日々頂いておりますように、いわゆる天の心とは地の心とはと分からしてもらうから、いよいよ限りない、いうならうるわしの心といわれるから、自分の心のいはば改まりが、先ずは出けなきぁ出けません。なかなか改まるという事は難かしいですけれども、先ずそれに気付かせて貰う。改まると云う事に。結局神様が水の性なら私共も水の性にまあなれないにしても、それに向かって精進しようという心を一心発起というのです。水と油では一緒になれません。神様が水なら私共もいうなら、水にならせてもらおうという精進。それを日々の改まりが第一、信心は本心の玉を磨くものというように、まあ云ってあります。先ずは自分が改まっていく所を一つ気付かせてもらうのです。
 私の修行中に時分に、まあ大変な難儀な時分のおしらせに「先ず船を出せ、そしていかを釣れ、そしてそれを干し上げる、そこからいうならばするめ」名前も変わってくる。いかからするめに変わってくる。それこそかめばかむ程の味わいというものが生まれてくる。先ずこれではいかんというところを釣り上げなきぁいけない。いかとは私はその時分に、そういうふうに頂いた。はあこんな事では人間が助かりようはない、こんなこっじぁおかげの頂けんはずといったようなものを、自分の心の中に教えの鏡を立てますと、はっきりありありと分かってくる。
 いかんという所を先ずは釣り上げて、それをこう干すのです。それを干し上げる時がちょっとしるしい感じがしますね。こう生乾きでまあじゅるじゅるしたような感じですね。生でも食べられないというて、まあするめのような味があるわけでもない。まあ見ただけでもしるしかりそうな時なんです。私共が改まるという事は、やっぱりそう簡単な事ではない。本気で改まろうという気にならなければ、改まれるものではない。
 そしてそれがいうならば、するめというのはね、もうこういう悪い事はいっちょごするめというふうに私は頂きました。
 今まで当り前のよう、人間だからこれ位の事は当り前と思うておった、当り前の事の中に改まらなければならない、いや向こうに行こうと思うても、行けない障害がそこにあるのです。夕べのお説教の中にも申しましたように、耳が聞こえなかった人が聞こえだしたら、今まで聞こえなかった世界から、聞こえる世界に入ったら、その有難い事ばかりぢぁない、いらん事までも雑音までも入ってくるようになった。というて折角お願いして耳が聞こえない人が、耳が聞こえるようになったら、又かえって不幸不足の元が出けたような、そういうようなおかげでは、おかげになりません。
 それこそ私はそういうしるしい時まだ耳が聞こえない時、まだおかげになっていない時、おかげを頂いたその頂いたおかげがかえって、難儀になる感じるような事のないような、ひとつの改まりを、神様に誓わなけりぁいけない。たとえて云うなら今お金が無い、お金に難儀をしておるという人が、よしここに億万長者にならせて頂いても、自らその金によっていうならば贅沢をしたり、手を出してはならない所に手を出したりするような事は、致しませんというものが、いっちょごするめ・いっちょごするめという所に決まっていくわけです。
 そして神様が試した上にも試して下さって、こんなら大丈夫と云われた時に頂くおかげが御神徳です。云うならば神様と同質のものになっていく、神様が水ならばこちらも水になっていける、そこにぴったりと一体になれる所の働き、そこから生み出されてくるおかげが、これが限りない、いわゆる無限、いわゆるお金で云うならば、無尽蔵にそれこそ使うて減らぬ、金百両というような徳が身についてくるんです。
 だから先ずは天地金乃神と申す事はという所をひとつ、いよいよ説明が出ける、又自分の実験実証して天地金乃神様とはこういう性質のお方で、この神様のお心を心とする生き方を身につけたら、こういうおかげが受けられるというね実証、もう先には金光教でなからなければ、説き得ない成る程前代未聞の宗教であるという事が、ざぁっと出てくるわけですね。氏子の自分の物でもないものを自分のように思うたり、それは宮寺の神の地所とこうおっしゃる、一切が神様の天地金乃神様の御物である、御土地であるという事です。日柄方位ばかり見て、いわゆる過去の迷信というものを、もう打ち捨てていかなきゃならん、しかもここで、私共が思はなきぁならない事は、初めてここにめぐりという言葉が出てまいります。
 天地の御恩徳を知らず天地の中にぁ氏子幸にせずには、おかんという働きだけしかないのに、自分達でこれが罪だの因縁だの、といったような過去の宗教が説いてきたような事に惑わされて、迷信にしばられてしまう。日柄方位ばかり見て無礼致し、前々の巡り合わせで難を受けおる。そうした天地へ対する所のお粗末、御無礼が巡りになるのであってね、私共が今まで罪になるとか、これが因縁だろうと思うておるような事柄で、人間が不幸になるという事はないんだと、天地に対する所の思い違い、天地に対する所の考え違いその事が無礼になるのだと、それがたまりたまって全然の巡り合わせで、難儀を受けておるのだというふうに説いてあるですね。ここはもっと時間をかけなければ実際は分からない所ですけれども、いわゆる今までの過去のいうならば知っておった感じておった事が一掃されてくる。天地の大恩がいうならばだんだん分かってくる。その為にはね神様がそういう云うならば、神を分からせて下さろうとする神様が、へり降って氏子信心しておかげ受けてくれよという所がここん所へ出てまいります。願う氏子におかげを授けとおっしゃっておられます。もう神様の方がへりくだっていかれておられるね。そしてはあ神様ちゃ有難いなあと分かった所から理解申して聞かせてあります。
 だからその理解申して聞かせと云う所を一つ分からなきぁいけない。おかげおかげと云うてその今の顔が今ここで成就したら、さぞよかろうごとあるけれどもね、そういうようなわけにはいかん道理が次に説かれる。それが昨日のお説教の中に申しますように、お前がくれというからやりもしよう、けれどもそのやった為に、かえって不幸不足を云わねばならないような事の為にはやらんぞ、といったような働きがあるわけですね。お金が無いといやお金をやる、それを云うならばかつがつやる、いわゆるその日暮し的な所からいよいよ神様を分からしてもらうんですけれども、その日暮しぢぁないゆとりのある、いうならばお金にも恵まれるおかげを頂きたいのですけれども、そういう恵まれた時にかえってそうお金で出しちゃならない所に手を出したり、かえってお粗末御無礼な事に使うたり、例えば私共が自分で自分の物を買い求めるという事は、布一寸米一粒買わないというような生き方になった時になる時に、成る程神様がおかげを下さるはずだと思いましたね。そういう腹が出けた。
 だからこん男にはいくら持たせたっちゃよかという神様の安心しておかげ下さる事が出けるのです。こりぁもうあたしだけぢぁない。家内と二人で私共はたとえどんなに、沢山のお金を頂いても、布一寸無断で私共は買うような事はしないと、無駄使いはしないという腹が神様に通じた時になら、限りないいうなら使うても減らぬ、金百両的なおかげが出来てきたんだというふうにおもいます。この辺が大事。
 これは後を説明すると御理解三節はもうどれだけ説いても、説きつくせない程しの内容をもっておるのがこの御理解三節であり、又この御理解三節をよく含味させて頂くと成る程、お道の信心が前代未聞の信心であるなあ、それこそ開闢以来といわれるようなものを、ここから体得する事が出けますが、先ずは天地金乃神と申す事はという一番のの言葉をですね、ただそれだけにとどめずになら、天地金乃神様といわれるのは、どういう神様かという事を知る。いうなら親の心を知る、そしてその親の心にそわせて頂くという、その添わせて頂く手立てが合楽理念に細々と、説いてあるんだという事です。そこん為に私共がね今申しますように、先ずいかを釣り上げる。それを干し上げる、それをするめにてしていく。そこにかめても尽きぬような味わいのある信心の世界。いうならば合楽の世界に住む事も出けるという事になります。
 ですからやはり改まりという事がね、出来ませんと本当の味のある、だからその改まりをね、いうなら神様に誓わせて頂く、神様から頂いたお金を例えば頂きましても、どれだけ沢山頂きましてもそれが無駄使いにするような事は致しませんといったような、いうなら心の改まりが出けた時になら神様も、いうなら安心して下さる事が出けるおかげ、神様に喜んで頂く、神様に安心して頂けるような、おかげを頂く為にも、又金光教の信心が成る程前代未聞の、いうならば人間が本当に幸になる事の宗教であるというような事を分からせて頂く為にもね、先ず天地金乃神と申す事はというところを分かり、その天地金乃神様の心に添わせて頂こう神様が、水ならこっちも水の性にならせて頂こうという、いうならば願いを先ずは持つ事が信心を頂く事であり、信心を分からして頂く事になるのです。そこから交流する世界があり、いうならすべてのいうならおかげが約束される事になる。それをが御神徳というわけであります。私どもは神様にならんでんよかてんなんてん云わずにね。いうならそれは金光教の御信心は、どこまでもね、天地金乃神様の心を心と頂いていく信心なんです。                               どうぞ